現在首都のキエフに滞在している。
さすが首都ということで人も多く街を歩く人たちもどことなく忙しそうな感じがする。そして首都なりの活気があると感じる。
キエフに来て少し落ち着いたので、久しぶりに読書をしてみようと思い、ロシアの小説家トルストイの「イワンイリイチの死」という本を読んだ。
いや、なぜ旅中にトルストイというチョイスかというと、ウクライナはロシア語圏(場所によるが)なんだから、ウクライナの友達に「俺トルストイ読んだことあるよドヤッ:)」てできるかなという打算的な考えで選んだわけである。
右の写真のトルストイの堅物おやじぶりを見ても一気に読む気失せるものではあるが、ドヤ顔したいがためにとりあえず必死で読んでみたのだ。
ちょっとした泊付になるかなという浅はかな思いから読んだんだけど、この小説は久々のあたりだった。
一言でこの小説を説明すれば、「死ぬ前の人の感情を追体験する」小説と言えると思う。トルストイが老齢になった時に書かれた小説とのことなので、トルストイ自身、近づきつつある死を感じている時期に書かれたものなのだろう。
なぜトルストイはここまで人の感情をわかりやすくかつ以上に鋭く描けるのだとろうと感心してしまった。
この小説はイワンイリイチというロシアのとある裁判官が突然不治の腎臓の病に見舞われ、その直前の彼の心情が描かれた小説である。
イワンイリッチは世間一般で言われる職業的な名声はすでに十分に獲得している人間であるのだが、ある日突然病に犯され、次第に体が弱っていく。その中で必死で治療法を試していくのだが、それにも関わらず弱っていく体、とうとうイリイチはこう考えるようになった。
「盲腸だと、腎臓だと!いや問題は盲腸でもなく、腎臓でもない。要は生か、それとも死かなんだ。そう今まであった命がこうしてなくなろうとしている。なくなろうとしていて、しかも自分にはそれを止めることができない(省略)私が存在しなくなるとしたらいったい何が存在するのだ?何も存在しなくなるだろう(省略)。。。。。」
そして、病気に対して死を感じている自分とそれに共感してくれない周りの家族の間に溝を感じるイリイチ。
「イワンイリイチを一番くるしめたのは嘘であった。つまり彼は単なる病気であって死ぬわけではないから、ただ落ち着いて治療に専念していればなにかとても良い結果がでるだろう、といった、なぜかみなに受け入れられている嘘であった。彼にはよくわかっていたのだー何をしようと効果はなく、ただ余計に苦しい目にあって結局は死ぬだけだと。だからそうした嘘が彼を苦しめた。お互いにわかっていることを認めようとせず、こちらの症状がいくらひどくても嘘をつき続け、おまけにこちらまでその嘘に加わるように強いるー」
そして死の直前にはいったイリイチの感情を表現した次の文章も秀逸
「彼は感じていたー自分が苦しむ理由は、この真っ暗な穴に吸い込まれようとしているからだが、しかしもっと大きな理由は自分がその穴にもぐりこみきれないからだと。穴に潜り込むのを邪魔しているのは自分の人生がよきものだったという自覚であった。」
穴に潜り込むのを邪魔しているのは自分の人生がよきものだったという自覚であった。という文章には考えさせられる。そもそもよき人生とはなんなのだろうか。それでは自分の人生が良いものではなかったと思える生き方をしいれば死ぬ際には後悔なく死ねるのだろうか?!それに答えはないのだが、、、
同時に当然ではあるが僕自身にとって死というものはまだまだ他人事としか捉えれていないことを認識させられた。
しかし、「当たり前の生活」が当たり前ではないことも改めて再認識した。そしてどうせ死ぬのだから、誰がどう言おうが自分の生きたいにように生きて死ぬという人生を送りたいと感じた。て完全ににpeople see what they expect to seeというシーザーのことわざ通り、この本を僕のみたいように解釈してるんだけど、、、
トルストイとかぷっ頑固おやじが書いた理屈こねておもんなさそうとなめてたけど、相当におもろいし、刺激が強い毒物みたいな読み物だ。
さすが首都ということで人も多く街を歩く人たちもどことなく忙しそうな感じがする。そして首都なりの活気があると感じる。
キエフに来て少し落ち着いたので、久しぶりに読書をしてみようと思い、ロシアの小説家トルストイの「イワンイリイチの死」という本を読んだ。
いや、なぜ旅中にトルストイというチョイスかというと、ウクライナはロシア語圏(場所によるが)なんだから、ウクライナの友達に「俺トルストイ読んだことあるよドヤッ:)」てできるかなという打算的な考えで選んだわけである。
右の写真のトルストイの堅物おやじぶりを見ても一気に読む気失せるものではあるが、ドヤ顔したいがためにとりあえず必死で読んでみたのだ。
ちょっとした泊付になるかなという浅はかな思いから読んだんだけど、この小説は久々のあたりだった。
一言でこの小説を説明すれば、「死ぬ前の人の感情を追体験する」小説と言えると思う。トルストイが老齢になった時に書かれた小説とのことなので、トルストイ自身、近づきつつある死を感じている時期に書かれたものなのだろう。
なぜトルストイはここまで人の感情をわかりやすくかつ以上に鋭く描けるのだとろうと感心してしまった。
この小説はイワンイリイチというロシアのとある裁判官が突然不治の腎臓の病に見舞われ、その直前の彼の心情が描かれた小説である。
イワンイリッチは世間一般で言われる職業的な名声はすでに十分に獲得している人間であるのだが、ある日突然病に犯され、次第に体が弱っていく。その中で必死で治療法を試していくのだが、それにも関わらず弱っていく体、とうとうイリイチはこう考えるようになった。
「盲腸だと、腎臓だと!いや問題は盲腸でもなく、腎臓でもない。要は生か、それとも死かなんだ。そう今まであった命がこうしてなくなろうとしている。なくなろうとしていて、しかも自分にはそれを止めることができない(省略)私が存在しなくなるとしたらいったい何が存在するのだ?何も存在しなくなるだろう(省略)。。。。。」
そして、病気に対して死を感じている自分とそれに共感してくれない周りの家族の間に溝を感じるイリイチ。
「イワンイリイチを一番くるしめたのは嘘であった。つまり彼は単なる病気であって死ぬわけではないから、ただ落ち着いて治療に専念していればなにかとても良い結果がでるだろう、といった、なぜかみなに受け入れられている嘘であった。彼にはよくわかっていたのだー何をしようと効果はなく、ただ余計に苦しい目にあって結局は死ぬだけだと。だからそうした嘘が彼を苦しめた。お互いにわかっていることを認めようとせず、こちらの症状がいくらひどくても嘘をつき続け、おまけにこちらまでその嘘に加わるように強いるー」
そして死の直前にはいったイリイチの感情を表現した次の文章も秀逸
「彼は感じていたー自分が苦しむ理由は、この真っ暗な穴に吸い込まれようとしているからだが、しかしもっと大きな理由は自分がその穴にもぐりこみきれないからだと。穴に潜り込むのを邪魔しているのは自分の人生がよきものだったという自覚であった。」
穴に潜り込むのを邪魔しているのは自分の人生がよきものだったという自覚であった。という文章には考えさせられる。そもそもよき人生とはなんなのだろうか。それでは自分の人生が良いものではなかったと思える生き方をしいれば死ぬ際には後悔なく死ねるのだろうか?!それに答えはないのだが、、、
同時に当然ではあるが僕自身にとって死というものはまだまだ他人事としか捉えれていないことを認識させられた。
しかし、「当たり前の生活」が当たり前ではないことも改めて再認識した。そしてどうせ死ぬのだから、誰がどう言おうが自分の生きたいにように生きて死ぬという人生を送りたいと感じた。て完全ににpeople see what they expect to seeというシーザーのことわざ通り、この本を僕のみたいように解釈してるんだけど、、、
トルストイとかぷっ頑固おやじが書いた理屈こねておもんなさそうとなめてたけど、相当におもろいし、刺激が強い毒物みたいな読み物だ。
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