メキシコからコスタリカ、パナマ、コロンビアと計3年生活してきた。
僕は現地で生活し南米のラテン気質な人々と交流するにつれ彼らの「今を楽しむことを重視する」刹那的な性格に深く共感するようになった。
「まずは準備が必要と言い訳ばかりして今を全力で生きようとせずにいた自分に気付かされた」
彼らラテンな人々から日本人である僕が学んだことは本当に多い。
そんな機会を20代中盤から得ることができて幸運だったとすら思っている。
あるアルゼンチン人との出会い
僕はメキシコのプエルトエスコンディードというビーチでオーグスティンという僕と同い年のアルゼンチン人と出会った。
彼はアルゼンチンの大学を中退してサーフィンを追求する旅を始めたそうだ。メキシコという異国のビーチのカフェでウェイターをやりながら暮らしている。
僕と若干、境遇が似ていて彼にサーフィンを教えてもらって一緒にサーフィンしてよく遊んだ。普段ふざけてる彼がある時ぽつりとこう言った。
「別に金銭的に成功したいとも思ってないから大学卒業する必要ないと思ってやめた。それで、ずっとやりたかったサーフィンをやろうと思ったんだ。こうやってビーチの近くで暮らす今のライフスタイルには満足してるよ」
これはこれで刹那的すぎるし、ホントにいいのかそれで?という意見もあるだろう。
今を楽しむというと若干刹那的なところはあるけど、人はいつかは死ぬ。いつ死ぬかもわからない。
明日風呂場で滑って頭を打って死ぬかもしれない。
交通事故で死ぬかもしれない。
脳の血管が切れて死ぬかもしれない。
このアルゼンチン人のオーグスティンはじめラテン系の人々の「今を全力で楽しむ」姿を見て「将来への準備、準備」で生きていても仕方ないのではないかと思うよになった。
もし世間的な名声は得れなくても自分が好きなことに熱中して楽しんでいるうちに開けるものがあるのではと思うようにもなった。
だから旅もこれまでのようにいろいろ考察することを止めて、少し切り替えて体験重視でサーフィンやりまくったり踊りまくったりして遊ぶようになった。
ラテン系の人々が恋愛に対して情熱的なのも「今を楽しむ」という思想が彼らの根底にあるはずだ。ちなみに彼ら彼女らは性に対しても非常にオープンでセックスを楽しもうと言う積極さがあるようにも思える。
なんのための準備なのか。それがあやふやでは本末転倒
準備することそのものが目的になっている「手段が目的化」してしまっていることって多々ある気がする。
たとえば英語とかそうだけど、英語を使うのは多くの国の人と交流するための手段であって英語を話すことそのものが目的であってはいけないと思う。
もちろん準備は重要なのは確かだけど。それにとらわれ過ぎると見逃してしまうことがあるような気がする。
英語話せるようになっても話す中身なければ本当に意味がないな~と旅する中で痛感してる日々だから余計にそう思う。
ラテン系人々の性格は私たち日本人からすると無計画で衝動に身を任せており刹那的に見える。だが、「今を全力で生きようとしている」彼らの姿勢は私たちが人生をより良く生きるために参考にできるとも思うのだ。
ただ一方で、ラテン系の人々は基礎をなおざりにしがちだたったり小さな積み重ねを軽視する傾向がある。
積小大為という言葉があるように日本人には「小さなことを積み重ねて大事を為そうとする精神性」があるのではないかと思う。これは日本人の凄い強みだろう。
ラテン系の今を全力で生きる+日本人の小さなことを軽視せず日々鍛錬する姿勢がうまく調和すれば世界最強なのではないかとおもうのだ。
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