Thursday, June 11, 2015

察するという思考が人間関係の問題の種となると感じた話

conflict_resolution

ちょっと唐突な話題だけど対する相手の気持ちを察するという日本の美点のような文化習慣が持つ欠点について書いてみたいと思う。

実は旅をしていろんな国の人と関わる中でその察するということには良いところがあるとともに、そこにコミュニケーション不足が合わさったときに悪いところが多く見えるようになったからだ。

僕たち日本人はこれが日本の長所であると思っているけど、それは一面正しい面もあるのだけど、察するという行為に他者とのコミュニケーションが不足していることが多いのではないか。と感じている。

察するというのは、自分の他者の気持ちの捉え方でしかないわけであって、決して他者の気持ちを正しく把握できているものではなく、そこにはさらにしっかりしたコミュニケーションが必要だ。

そのコミュニケーションがあってですら他者の気持ちを把握するのは難しいものなのに勝手に推し量ってしまってはならない。

例えば、誰か他の人を見た時に「あの人はこういうことすれば怒るかもしれないな」などこちらが思っていても、当の本人はまったくそんなことはないことなどたくさんある。
そしてその逆もまたしかりだ。

僕は幼い頃から思い込みが強い上に、他人に考えを打ち明けることが苦手だったために20歳くらいまで色々と人間関係で問題をおったりした。

しかし、20歳を過ぎたくらいから営業アルバイトのようなことをしてみたり、紛争学や社会学のゼミをとって他者とお互いの認識の仕方を共有する必要性というのを痛いほど学んで少しずつ改善していった。大学のゼミなどで勉強になったことはこのあたりではないかと感じている。

そして22歳の時にインドの現地企業でインド人とともに働いてみて、海外には物事の認識の仕方が大きく違う人がいて、まず最初に行うべきことは察するではなくお互いの認識を共有するコミュニケーションであると感じたのだ。

察するを否定する気はないが、そこにはしっかりしたコミュニケーションが前提として存在しなければならないと思っている。

こんなこと当たり前のことだが自分の考え方の整理に必要だと思ったので書いてみた。




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